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理論とセンス
理論とセンス、絵を描くのに大事なのはどっちだろうか。
一般論で言えば、「人によりけり」と片付けることはできる。しかし、人に見せることを前提に描こうとする場合、その両方が必要になってくると僕は思う。
たとえば、センスだけで描いている(と思われる)漫画家に、しりあがり寿氏がいる。どんな絵であろうと必ず理論はある筈なのだが、同氏の場合は、「理論がないのが理論」である。氏の絵に絵画理論を持ち込んだ時、あの世界観は消滅する。
そして、絵画理論を徹底追求した漫画家は荒木飛呂彦だろう。氏の絵はセンスよりも、理論で描かれている。荒木の絵は独特だといわれるが、実際に絵画を勉強してみれば、氏の絵は極めてデッサン理論に忠実であることがわかる。80年代以降に定着した、現代漫画のスタイルこそが実は異端なのだ。ただ、現代漫画のディフォルメのフォーマットが記号化しているため、誰も気付かないだけである。
翻って自分の絵はどうかと言うと、どうも理論とセンスが伯仲していて中途半端な状態である気がする。理論とセンス、単純に分けることはできないかも知れないが、そのどちらかに偏りを持たせた方がうまく行くのではないか。
ただ、物理的に上手い絵がかならずしも優れた絵であるとは言いがたい。ただ上手いだけの漫画家なら、それこそ掃いて捨てるほどいる。荒木飛呂彦の絵は理論で成り立つと書いたが、その理論を支えるものが絵画センスであることもまた事実である。
つまり、理論とセンスは背中合わせなのだ。
そのどちらが欠けても、絵は成立しない。そもそも、人を魅了するために描くのだから、センスを無視するわけにはいかない。センスを形にするには、理論を学ばなくてはならない。
そうだとわかった上で個人的な結論としては、理論のほうがややセンスよりも大事である、としておく。理論さえ学べば、たいていの表現はできるし、もともとセンスがある人なら理論を学べば鬼に金棒だろう。
ただ、考えすぎると煮詰まって描けなくなる事もあるので、あまり深く考えないというのも有効かも知れない?
一般論で言えば、「人によりけり」と片付けることはできる。しかし、人に見せることを前提に描こうとする場合、その両方が必要になってくると僕は思う。
たとえば、センスだけで描いている(と思われる)漫画家に、しりあがり寿氏がいる。どんな絵であろうと必ず理論はある筈なのだが、同氏の場合は、「理論がないのが理論」である。氏の絵に絵画理論を持ち込んだ時、あの世界観は消滅する。
そして、絵画理論を徹底追求した漫画家は荒木飛呂彦だろう。氏の絵はセンスよりも、理論で描かれている。荒木の絵は独特だといわれるが、実際に絵画を勉強してみれば、氏の絵は極めてデッサン理論に忠実であることがわかる。80年代以降に定着した、現代漫画のスタイルこそが実は異端なのだ。ただ、現代漫画のディフォルメのフォーマットが記号化しているため、誰も気付かないだけである。
翻って自分の絵はどうかと言うと、どうも理論とセンスが伯仲していて中途半端な状態である気がする。理論とセンス、単純に分けることはできないかも知れないが、そのどちらかに偏りを持たせた方がうまく行くのではないか。
ただ、物理的に上手い絵がかならずしも優れた絵であるとは言いがたい。ただ上手いだけの漫画家なら、それこそ掃いて捨てるほどいる。荒木飛呂彦の絵は理論で成り立つと書いたが、その理論を支えるものが絵画センスであることもまた事実である。
つまり、理論とセンスは背中合わせなのだ。
そのどちらが欠けても、絵は成立しない。そもそも、人を魅了するために描くのだから、センスを無視するわけにはいかない。センスを形にするには、理論を学ばなくてはならない。
そうだとわかった上で個人的な結論としては、理論のほうがややセンスよりも大事である、としておく。理論さえ学べば、たいていの表現はできるし、もともとセンスがある人なら理論を学べば鬼に金棒だろう。
ただ、考えすぎると煮詰まって描けなくなる事もあるので、あまり深く考えないというのも有効かも知れない?
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