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漫画のパワー競争
「たとえば、漫画の中に強い敵が出てくる。その次にそれよりも強い敵が出てくる。その次はそれよりも強い…となると最後はどうなっちゃうわけ?宇宙のハテを考えてるみたいになる。 それと世の中を見渡してみると、本当に強い人は悪いことはしないことに気付く。〜後略〜」
枝葉末節が間違っているかも知れないけれど、「ジョジョの奇妙な冒険」46巻(47巻だっけ?)の巻頭言にこんな事が書かれていて、全くそのとおりだと友人と感心したのを覚えている。
これが、80年代中期以降の少年漫画が陥ってきた泥沼に対する警鐘であった事は言うまでもない。そのもっとも代表的な例は「ドラゴンボール」だが、あの作品は鳥山明の手にあまるバブルの怪物になってしまって、連載をやめたくて仕方なかったのも当然だろう。
最近、「聖闘士星矢」を読み返して、そういう事を改めて考えてしまった。ただ、「星矢」は最初のパートで、ポセイドンやハーデスといった強大な敵の存在に含みを持たせており、全体としてみると意外にストーリーは繋がりがしっかりしている。どっちかというと、キャラクターの生死が不明瞭である、といった問題の方が大きい。人間である星矢たちが神に勝てるのは不条理に思えるが、神であるアテナの力を借りていた事を考えると整合性は取れる。
出版社としては、ヒット作品は続いてくれたほうが良いから、設定を継ぎ足してでも連載を続ける。そうなると、作者や担当が考えていた落とし所を埋めて、別な落とし所を設定し直す必要が出てくる。すると設定に歪みが生じる。少年漫画はバトル漫画がメインなので、その歪みをどう処理するかというと、結局は悪役とのパワー競争、という構図に落ちついてしまうのである。弱い悪役を易々と主人公一味が退治していくのでは、どっちが悪役かわからない。
これは恐ろしいことであろう。超ヒット作品でありながら、連載を無理に継続したことで駄作に成り下がってしまうのだ。実際、そういうケチがついた作品は枚挙に暇がない。
そういう意味では、「知る人ぞ知る」といった、数字的にはそれほど大きくない中規模ヒット作品の方が幸福なのかも知れない。作者が芸術家ではなく、拝金主義者である場合はその限りではないが。
枝葉末節が間違っているかも知れないけれど、「ジョジョの奇妙な冒険」46巻(47巻だっけ?)の巻頭言にこんな事が書かれていて、全くそのとおりだと友人と感心したのを覚えている。
これが、80年代中期以降の少年漫画が陥ってきた泥沼に対する警鐘であった事は言うまでもない。そのもっとも代表的な例は「ドラゴンボール」だが、あの作品は鳥山明の手にあまるバブルの怪物になってしまって、連載をやめたくて仕方なかったのも当然だろう。
最近、「聖闘士星矢」を読み返して、そういう事を改めて考えてしまった。ただ、「星矢」は最初のパートで、ポセイドンやハーデスといった強大な敵の存在に含みを持たせており、全体としてみると意外にストーリーは繋がりがしっかりしている。どっちかというと、キャラクターの生死が不明瞭である、といった問題の方が大きい。人間である星矢たちが神に勝てるのは不条理に思えるが、神であるアテナの力を借りていた事を考えると整合性は取れる。
出版社としては、ヒット作品は続いてくれたほうが良いから、設定を継ぎ足してでも連載を続ける。そうなると、作者や担当が考えていた落とし所を埋めて、別な落とし所を設定し直す必要が出てくる。すると設定に歪みが生じる。少年漫画はバトル漫画がメインなので、その歪みをどう処理するかというと、結局は悪役とのパワー競争、という構図に落ちついてしまうのである。弱い悪役を易々と主人公一味が退治していくのでは、どっちが悪役かわからない。
これは恐ろしいことであろう。超ヒット作品でありながら、連載を無理に継続したことで駄作に成り下がってしまうのだ。実際、そういうケチがついた作品は枚挙に暇がない。
そういう意味では、「知る人ぞ知る」といった、数字的にはそれほど大きくない中規模ヒット作品の方が幸福なのかも知れない。作者が芸術家ではなく、拝金主義者である場合はその限りではないが。
理論とセンス
理論とセンス、絵を描くのに大事なのはどっちだろうか。
一般論で言えば、「人によりけり」と片付けることはできる。しかし、人に見せることを前提に描こうとする場合、その両方が必要になってくると僕は思う。
たとえば、センスだけで描いている(と思われる)漫画家に、しりあがり寿氏がいる。どんな絵であろうと必ず理論はある筈なのだが、同氏の場合は、「理論がないのが理論」である。氏の絵に絵画理論を持ち込んだ時、あの世界観は消滅する。
そして、絵画理論を徹底追求した漫画家は荒木飛呂彦だろう。氏の絵はセンスよりも、理論で描かれている。荒木の絵は独特だといわれるが、実際に絵画を勉強してみれば、氏の絵は極めてデッサン理論に忠実であることがわかる。80年代以降に定着した、現代漫画のスタイルこそが実は異端なのだ。ただ、現代漫画のディフォルメのフォーマットが記号化しているため、誰も気付かないだけである。
翻って自分の絵はどうかと言うと、どうも理論とセンスが伯仲していて中途半端な状態である気がする。理論とセンス、単純に分けることはできないかも知れないが、そのどちらかに偏りを持たせた方がうまく行くのではないか。
ただ、物理的に上手い絵がかならずしも優れた絵であるとは言いがたい。ただ上手いだけの漫画家なら、それこそ掃いて捨てるほどいる。荒木飛呂彦の絵は理論で成り立つと書いたが、その理論を支えるものが絵画センスであることもまた事実である。
つまり、理論とセンスは背中合わせなのだ。
そのどちらが欠けても、絵は成立しない。そもそも、人を魅了するために描くのだから、センスを無視するわけにはいかない。センスを形にするには、理論を学ばなくてはならない。
そうだとわかった上で個人的な結論としては、理論のほうがややセンスよりも大事である、としておく。理論さえ学べば、たいていの表現はできるし、もともとセンスがある人なら理論を学べば鬼に金棒だろう。
ただ、考えすぎると煮詰まって描けなくなる事もあるので、あまり深く考えないというのも有効かも知れない?
一般論で言えば、「人によりけり」と片付けることはできる。しかし、人に見せることを前提に描こうとする場合、その両方が必要になってくると僕は思う。
たとえば、センスだけで描いている(と思われる)漫画家に、しりあがり寿氏がいる。どんな絵であろうと必ず理論はある筈なのだが、同氏の場合は、「理論がないのが理論」である。氏の絵に絵画理論を持ち込んだ時、あの世界観は消滅する。
そして、絵画理論を徹底追求した漫画家は荒木飛呂彦だろう。氏の絵はセンスよりも、理論で描かれている。荒木の絵は独特だといわれるが、実際に絵画を勉強してみれば、氏の絵は極めてデッサン理論に忠実であることがわかる。80年代以降に定着した、現代漫画のスタイルこそが実は異端なのだ。ただ、現代漫画のディフォルメのフォーマットが記号化しているため、誰も気付かないだけである。
翻って自分の絵はどうかと言うと、どうも理論とセンスが伯仲していて中途半端な状態である気がする。理論とセンス、単純に分けることはできないかも知れないが、そのどちらかに偏りを持たせた方がうまく行くのではないか。
ただ、物理的に上手い絵がかならずしも優れた絵であるとは言いがたい。ただ上手いだけの漫画家なら、それこそ掃いて捨てるほどいる。荒木飛呂彦の絵は理論で成り立つと書いたが、その理論を支えるものが絵画センスであることもまた事実である。
つまり、理論とセンスは背中合わせなのだ。
そのどちらが欠けても、絵は成立しない。そもそも、人を魅了するために描くのだから、センスを無視するわけにはいかない。センスを形にするには、理論を学ばなくてはならない。
そうだとわかった上で個人的な結論としては、理論のほうがややセンスよりも大事である、としておく。理論さえ学べば、たいていの表現はできるし、もともとセンスがある人なら理論を学べば鬼に金棒だろう。
ただ、考えすぎると煮詰まって描けなくなる事もあるので、あまり深く考えないというのも有効かも知れない?
イラスト追加
昨年描いたイラストを4点、修正を加えてHPにアップロード。
JAlbumというHTML画像アルバム作成ソフトを使ってて、優れたソフトなんだけど、どうも設定項目がややこしい。サムネイルのレイアウトも、横になったり縦になったりするし、プロジェクトの保存場所が勝手に変えられたりする。
HPの方向性はおぼろげながら見えてきた感じ。次は版権作品のイラストもアップする予定。
JAlbumというHTML画像アルバム作成ソフトを使ってて、優れたソフトなんだけど、どうも設定項目がややこしい。サムネイルのレイアウトも、横になったり縦になったりするし、プロジェクトの保存場所が勝手に変えられたりする。
HPの方向性はおぼろげながら見えてきた感じ。次は版権作品のイラストもアップする予定。
HP
とりあえず体裁らしいものは整えたものの、どういうイラストを載せるかはまだ未定。ショートショートの漫画なんかも考えてはいるんだけど(ショートショートより長い短編だったら投稿したほうがいいし)。
アクセスカウンターの設置は考えたんだけど、よく考えたら僕にとっては意味がないので設置しないことにしました。
アクセスカウンターの設置は考えたんだけど、よく考えたら僕にとっては意味がないので設置しないことにしました。
タグ : HPスタート
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